叔父までの面倒を見る羽目に
うちの親父や実家の件が、何とかひと段落したあとに、一時期おいて、また僕の携帯電話が鳴り響きました。民生委員からの電話電話に出たところ、福岡の民生委員からの電話でした。叔父が失禁しながら、徘徊をしていているとのことで、すぐにまた福岡に来てくれと連絡がありました。実家を売買したときに、1LDKのアパートに引っ越しをさせ、同じくらいの年の彼女がいたので、一緒にさせたことを思い出し
高村光一のブログや写真などの更新情報です
うちの親父や実家の件が、何とかひと段落したあとに、一時期おいて、また僕の携帯電話が鳴り響きました。民生委員からの電話電話に出たところ、福岡の民生委員からの電話でした。叔父が失禁しながら、徘徊をしていているとのことで、すぐにまた福岡に来てくれと連絡がありました。実家を売買したときに、1LDKのアパートに引っ越しをさせ、同じくらいの年の彼女がいたので、一緒にさせたことを思い出し
前回に引き続きで、僕の実家が崩壊した後に買い手が見つかり、無事に事を終えたのですが、その後も引き続き僕の悩みは尽きませんでした。それは親父や叔父の面倒なのです。前回、実家が崩壊したあとに、ただの居候人だった叔父は実家が買い手に渡った以上、出ていかなくてはなりません、つまり住むところを失ったのです。この叔父の話は長くなるので次回しますね。一方、叔母はハッキリと「私は結
僕の実家は福岡は博多にあったのですが、うちの親父と叔父が2人で住んでました。親父はうちの母が大阪に出るときには、当然、実家であるので実家に住み続けることとなりました。僕と母が大阪に出る当初、手が震えるパーキンソン病を患っていたのですが、50m隣にある老人施設に通所リハで通っていました。福岡県西方沖地震 そんなときに、2005年に福岡県西方沖地震が発生して、80年間の
僕には昔、妹がいました。僕と年の差も2歳違いで、生きていれば結構いいお祖母ちゃんになっていたかもです。実は僕の妹は27歳の時に誕生日と同じ月日に亡くなりました。内容は伏せておきますが、簡単に言うと家の中での不慮の事故でした。当時、親父が第一発見者で、すぐさまに警察を呼んで検証されました。事故と認定されました。妹は子供の頃は比較的元気で、やんちゃ娘で、家族みんなを困らせたものです。そ
前回の話の続きですが、大阪に引っ越した理由は母の姉妹からの大阪でお店を開かないかとの誘いがあって、行くことになったのです。いろいろとうちの事情もありましたが、もともと母の方が若い時から理容関係の仕事をしていて、独立してお店を持つことが夢であったからです。僕自身も大阪の都会に夢見て一緒に行くことになったのですが、いろいろとお店を持って軌道に乗るまでが大変でした。周りには競争相手の理容
僕は、今は大阪に住んでいるのですが、本当は東京の国立市生まれなんです。近くに住んでおられる方は、わかると思うのですが、国立音楽大学や一橋大学など知っておられるのでないでしょうか。もともと、父親が今のJR、昔は国鉄と言われていましたが、国鉄職員だったんです。当時、父親は、三鷹駅の近くの電車区で働いていました。電車区で中央線を整備していたんですよ。国立市にも、国鉄の木造で古